久しぶりに映画館で映画を見ました。ひとり、レイトショーで。久しぶりに「絶対見なくちゃ!」とピンときた映画でした。
女性パーカッショニスト、エヴリン・グレニーを追ったドキュメンタリー、『Touch the sound』。彼女の説明には、たいてい頭に「耳の聞こえない」というフレーズがはいります。わたしも、「耳の聞こえない、女性パーカッショニスト、エヴリン・グレニーを追ったドキュメンタリー」ということでこの映画を見たひとり。
日常生活に不便はないのであまり言いませんが、わたしは耳に不自由があります。片方の耳が難聴で耳鳴りがあり、会話は若干困難です。自分では慣れてしまっているのですが、場合によっては話が聞き取りにくく何度も聞き返してしまったり、疲れているときなど耳鳴りが気になって憂鬱になったり、ということもあります。
自分がそうだからか、ハンディキャップのあるひとのことが気になります。
耳は聞こえないけれど、「音はかたまりのように目の前にあり触れられるもの、耳で聞くのではなく、からだで感じるもの」と言うエヴリン・グレニーは、全身で音を感じ、演奏します。その表現はとても豊かで深く、耳が聞こえるか聞こえないかなど、どうでもよいことだと思わされます。
映画のなかで、彼女は言います。「どうしてみんなわたしにだけ「どうやって音を聞いているの?」と質問するの。他のひとには聞かないのに」と。
学生の頃ボランティアをしていた先でハンディキャップをもつ友だちができました。ことばをはっきりとは話せない女の子でしたが、身振り手振りで意思疎通に支障はなく、からだも不自由でしたが積極的に外に出て何にでもチャレンジするひとでした。何度か交流するうちに、彼女から頻繁に遊びの誘いの電話がかかってくるようになりました。でも、電話ではほとんど何を話しているのかわからずに困りました。そのうち彼女と会うことが本当に自分のたのしみなのかわからなくなりました。ハンディキャップのある友だちをもつことに自己満足感を持っているだけなのかも、偽善かもと思うとつらくなり、だんだんと彼女とは疎遠になりました。
どうして普通に、「電話では話ができないから電話はしないでね」と言えなかったのか(FAXなり他に連絡の手段もあっただろうに)。ハンディキャップのあるなしに関わらず、彼女自身を見てあげられなかったのか。今も彼女のことをときどき思い出します。
エヴリン・グレニーのことば。「この作品を通して私が伝えたいことは、分析による裏づけなどの枠にとらわれたり、感じることに境界線を引いたりしないことです。つまり身近な物事に対して、人間が持っている五感をフルに使い、未知なる第六感を目覚めさせ、好奇心や興味を引き起こすことです。 “ありのまま”のあなたで物事を見て欲しいのです。」
“ありのまま”の自分でものを見ることが、実はとてもむずかしい。“ありのまま”の自分を受け入れることも、“ありのまま”のひとを受け入れることも。
身の回りのたくさんの音を感じていく彼女の「音の旅」を見て、雨のなか映画館を出ると、傘にあたる雨の音も、車が跳ね飛ばす水の音も、追い越す自転車のタイヤの音も、手に持つビニール袋が服にこすれる音も、いろんな音すべてが新鮮にからだに入ってきて、耳障りだと思っていた耳鳴りも、そのなかのほんのひとつとしてあたりまえに受け入れられて、なんだか映画館に入る前とはまったく別の世界に来たようにさえ思えたのでした。
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